両足院から学ぶアフターコロナ :「遊学」と「遊行」がビジネスマンのDXに不可欠
両足院の伊藤東凌(いとう とうりょう)さんのお話。
昔の僧侶は結婚禁止だったので、寺の継承はヘッドハンティングによって行われていた。
どんな人が選ばれていたかというと「漢詩」が読めて理解できる人。
医学、科学、建築、文学(五山文学)、芸術(詩画一致)、あらゆる文明は中国から教わった。そのために漢詩を理解できないと、お寺の発展に寄与できない。つまり漢詩理解は現代のMBAみたいなものだったのだろう。
それゆえ、時の政権は僧侶を外交のネゴシエーターとして重宝したわけだ。
両足院は、禅師・栄西(平安時代末期-1141年から鎌倉時代初期-1215年の僧)がつくった臨済宗の禅寺である。
栄西は、禅だけではなく「お茶」を日本に普及させた禅師。
「茶は養生の仙薬なり…」で始まる「喫茶養生記」(きっさようじょうき)という書を1211年に記している。宋留学中の経験に基づき、茶の効能,茶の栽培や製法、喫茶による諸病の治療法を述べ,お茶が健康管理に必要と述べている。これは、喫茶の薬効を説いた医書で、茶書として我が国最古のもの。
栄西が、鎌倉幕府の3代将軍 源実朝(みなもと さねとも)に献上したことで広く知られている。実朝が、茶一服で二日酔いが治り「茶徳を誉める書物」となる。
これ以降、日本で本格的な飲茶の習慣が普及したのだ。
茶は仏教とともに中国から伝来したが、平安時代には上流貴族や僧侶の間で薬の一種と考えられ,長寿の妙薬とされていた。
話はここで終わらない。両足院を力強く護持(ごじ– しっかりと守って保つこと)してきたマネージメントの中に龍山徳見(りゅうさんとくけん、1284-1358年)がいた。
徳見は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、まんじゅうを日本に持ち込んだ!
両足院、すごくない?お茶とまんじゅうを日本に持ってきたんだよ。そして、それは人が健やかで長生きできるようなロングヒット商品になった。
こういう天才は、すべて旅(当時は中国)を通じて知見を得て、日本にイノベーションをもたらしている。
いつの時代も「遊学」(ゆうがく – 故郷を離れ、よその土地や国へ行って勉強すること。現代のノマド)と「遊行」(ゆぎょう– 僧侶が布教のために各地を巡り歩き、寺の建立、食文化、農作物の普及など地域に教えた)が大事!
アフターコロナにも、「遊学」と「遊行」がビジネスマンのDXに不可欠と思う。