祖父 福田 薫の話し。
屋根裏を整理してたら古い家族写真が出てきた。
わたしの祖父 福田薫(1903年から1967年 享年64歳)は、早稲田大学をでて「中外商業新報社」(のちの日経新聞)に入社。(1924年)
相撲部の記者(当時はスポーツ部ではなく、国技の相撲だけで部があった)から政治部 部長を経て、日経新聞のナンバー2の地位まで上り詰めた。終戦時に42歳。GHQからのメディア統制があり、上層部が一気にいなくなった。そんな背景から若手だった祖父の世代が出世することになる。
しかし、圓城寺次郎さん(その後、日経新聞社長を8年以上つとめられた)との激しい権力争いに敗れ、子会社(日本教育テレビ=現在のテレビ朝日)の副社長として左遷させられたのだ。(1966年)
余談だが、その後 日経新聞社は日本教育テレビの株主として朝日新聞より多くの株式を持てなかったため、経営不審だった東京12チャンネル(現:テレビ東京)の経営に軸足をうつすことになる。(1969年)
そのあたりの経緯は、1993年に刊行された大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「メディアの興亡」(著者:杉山隆男 発売:文藝春秋)に詳しく書かれている。新聞社にとってアポロ計画以上の構想と言われたコンピュータによる新聞作りの話で、現在のDX化と似ている。非常に面白い本なので興味ある方は是非!
1960年代後半の話である。
新聞が最大のメディアという時代にあり、出来たばかりのテレビ局はまだ弱小メディアだったため、左遷の対象だったのだが、今にして思えば”未来ある子会社”だった。しかし福田薫は、就任から間もなく64歳でこの世を去る。
祖父、福田薫は新しもの好きで、二眼レフカメラや5インチのオープルリール録音機などなんでも揃えていた。
先日、幼少期の9.5mフィルムテープが出てきた。毎年家族と観音崎にバケーションで行ってた。海で遊ぶ3才の自分が映し出されていた。わたしの年代で動く幼少期の映像があるのは珍しい。
学生のとき、そのまま残っていた祖父の本棚から「副社長という仕事」という本を見つけた。文中に「副社長と社長の違いは、門番と社員ほどある」という部分にマーカーが引かれていた。
いまもむかしも権力争いというのは、そういうものかもしれない。
インターネットの時代において、大企業に入ることだけがキャリアパスの唯一の成功ではなくなった。
祖父が起業全盛の21世紀に活躍してたら、どんなイノベーションを起こしていたのだろう?歴史にイフはないが、そんなことを考えさせられる古い一枚である。