自分にとっての電通。
自分にとっての電通。
わたしと中村さんの出会いは、わたしが7-8歳。いやもっと小さかったかも。父が電通のラジオテレビ局長だったので、当時スタッフだった中村さんや、丸山さん(故人 元電通大阪支社長)、下條さん(元 都市開発局長)が頻繁に自宅に集まっては楽しくパーティをしていた。
本当にみなさん、パーティ好きで中には泊まる方もいて、朝起きると知らないおじさんがいることも多く、子どもながらに人見知りする暇がなかったww
わたしは、みなさんにマジックを披露したり、布施明の歌を歌ったりしていた。いかにも次男的な接待ぶりであった。
いまも健在の父は、電通が大好きだった。子どもながらに電通の明るく楽しい社風、テレビ業界や映画業界での活躍の話を大人たちの中で聞くのが愉しみだった。
特に毎年行われる電通の運動会はたくさんの芸人さん(大阪なので芸能人というより芸人さん)が来て、場を賑わせた。景品も豪華絢爛だった。
また、中学生になってからは映画の試写会チケットを父が毎日のような持ち帰ってくれたおかげで、誰よりも早くハリウッド映画を見ることができた。
そんな古き良き電通の話も父の引退(25年前の1996年)とともに聞くことがなくなった。父がよく自らの電通人生は幸せだったと述懐している。「特にインターネットが出る前に引退できたのはラッキーだった。」といつもの冗談まじりの口調で言ったいた。
父が引退した翌年、わたしは東北新社を辞し無職だった。中村さんはその時、電通の副社長だった。わたしの進路を心配して、電通に来たらどうかと誘っていただいた。電通には親子採用禁止のルールがあるが、幸い父が引退したばかりなので問題なかったが、わたしはソニーに行くことにした。
運命はわからない。最近、20代でよく遊んでいた榑谷くんが副社長になっていて凄いなぁと思っていたら、国との癒着、汐留自社ビルの売却や過去最大の赤字など問題山積で見ていられない。電通マン個人個人は素敵な人たちばかりなのに、企業としてはヘタっっている。
ここは榑谷くんのリーダーシップに期待したいね。
(写真は、当時の電通社長吉田秀雄から本社ビルの設計を依頼された建築家 丹下健三が設計した模型 ) 「築地再開発計画」(1964)の一部。
◆参考
毎日新聞 「訃報中村陽三さん 84歳=元電通<現電通グループ>副社長」
https://mainichi.jp/articles/20210105/ddm/041/060/068000c
NewsPicks「我々は、もはや広告会社ではない」電通の榑谷典洋氏(取締役副社長執行役員)だ。
https://newspicks.com/news/5391740/
コラム一覧 著者一覧 紙面
日刊ゲンダイ「また経産省…17年度~19年度で42件403億円を電通に委託」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/274561
AERA「電通本社ビルの売却額が過去最高見通しの背景に海外勢の動き 外資が「日本買い」に走るワケとは」
https://dot.asahi.com/aera/2021020800024.html
SankeiBiz「電通、赤字1595億円 過去最大、海外減損響く」
https://www.sankeibiz.jp/business/news/210215/bsc2102151734003-n1.htm
解体を待つ 丹下健三 の電通本社ビル~幻の築地再開発計画~
https://bit.ly/3jSW4Q3