「命の砂時計」。人生の時間は本当に連続しているのか? 哲学者ベルクソンと脳科学から考える、時間と記憶の不思議。

命の砂時計。
よくよく考えてみると、自分にはこの観念が欠けているように思える。人生の価値を、自分が生きている総時間だと考えることはできる。しかしその総時間は、砂時計の砂のように、本当に連続して落ちているのだろうか。
鎌倉時代の人にとって今が想像を絶する未来であるように、時間は昨日の連続として明日があるように見えて、実はどこかで断絶している。昔の出来事が昨日のことのように思える時もあれば、なかなか来ない明日もある。だとすれば、「命の砂時計」を俯瞰で眺めることなど、そもそもできないのではないか。
私が言いたいのは物理学の話ではない。時間の断絶の正体は、脳と記憶にある。
「昔のことが昨日のようで、明日がなかなか来ない」という体験は、物理的な時間ではなく主観的な時間の話だ。脳は時間を計測しているのではなく、出来事の密度から時間を推定している。新しい経験の多い期間は記憶が濃く、振り返ると長く感じる。逆に平凡な日々は圧縮されて消える。休暇の初日が長く、最後の日が一瞬で終わるのと同じだ。
記憶は録画ではなく、思い出すたびに再構成される。だから三十年前の鮮烈な出来事は、何度も再生されるうちに「昨日のこと」のように感じられる。楽しみな明日が遠く感じるのは、待つ間に何度も時間を意識するからだ。時間は実際より長く見積もられる。
さらに脳は、時間を「エピソード」という単位に区切って保存している。主観的な時間は滑らかな流れではなく、場面の連なりなのだ。
「時計が刻む時間」と「人が感じる時間」は別物だと、百年以上前に哲学者ベルクソンは言った。当時は哲学的な主張だったが、いまは脳の研究によって、実際にそうなっていることがわかってきた。脳内の時間は、出来事という点をつないだネットワークであり、点と点の間は圧縮されたり消えたりする。「昨日の連続としての明日」という感覚は、脳が後からつじつまを合わせて作った物語に近い。
もう一つ付け加えれば、「鎌倉時代の人にとって今は想像を絶する未来」という感覚は、時間の断絶というより、変化の速さが一定ではないという話だ。技術や社会の変化は加速していくため、等間隔の時間でも中身の密度はまったく違う。百年前と今の差は、千年前と九百年前の差よりはるかに大きい。時間軸は均一でも、その上に乗る変化の量は均一ではない。
つまり科学的には、時間そのものは連続として記述されているが、私たちが実際に生きているのは、出来事と記憶で区切られた非連続の時間だ。
だから私は、自分の人生を「命の砂時計」とは考えない。人生は、たくさんの美しい思い出と、未来への期待の断片で出来ている。そう信じている。



