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Speedy Farm : 今年もジャボチカバ(ブラジリアン・グレープ)の実がたわわになっている。 | 株式会社スピーディ

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Speedy Farm : 今年もジャボチカバ(ブラジリアン・グレープ)の実がたわわになっている。

Speedy Farm
今年もジャボチカバ(ブラジリアン・グレープ)の実がたわわになっている。
この木の幹に直接実をつけるユニークなフルーツの味わいは見た目が似ている巨峰よりはるかに甘いのだ。原産国ブラジルでは、一度植え付ければ孫の代まで収穫を楽しめるほど丈夫な果樹とされている。
さて、どうして沖縄にブラジルの果実がなっているのか?これには深い歴史がある。
沖縄から海外への移民は、今から120年前(1899年)にさかのぼる。
ハワイへ27名移住したのが始まり。当時の沖縄が非常に貧しかったことが主な理由だが、地割制が廃止され土地を自由に売却できるようになったこと、移民会社・移民指導者の存在、徴兵忌避等、当時の社会を取り巻く環境が、海外への移住を後押しした。
ちなみに、1899年から1938年の移住者数は72,134名。当時の沖縄県民(ウチナーンチュ)の約12%が移住した計算となる。ハワイ、フィリピン、ブラジル、ペルーが多かった。
第二次世界大戦が終わると、先に移住していた家族からの呼び寄せや琉球政府による移住政策の推進により、戦後も海外移住者は増えつづけた。
海外へ渡ったウチナーンチュの暮らしはとても過酷なものだった。
一生懸命稼いだお金を沖縄の家族へ送金しその家計を支えたり、また、戦後焼け野原となった沖縄にいち早く救援物資を送ったりと、苦しむ沖縄の人々を救ってきたのは、この移住者たちだった。
そして、このような沖縄にルーツをもつ海外の沖縄県系人(いまは二世、三世となっている)を招待して開催されるイベントが「世界のウチナーンチュ大会」(1990年に第1回、以降ほぼ5年ごとに開催)である。
コロナで延期になっていたが、今年は沖縄本土復帰50年の節目でもあるのでこの秋に開催が予定されている。目的は、沖縄にゆかりのある人々を結びつけた国際交流ネットワークを作り上げることにある。
ジャボチカバがブラジルから沖縄にやってきた経緯には、このような過酷の歴史があったことを忘れてはならない。
多くの海外での成功者たちが、沖縄のグローバルネットワークを築いていることも他にはない沖縄の魅力なのである。