ジェンダーレスの行く末は同じヒューマンでしかないということ
ジェンダーレスへの意識が高いロサンゼルスでは、アプリケーションフォーム(登録)の”性別”(ジェンダー)欄を開くと、以前なら「男性」「女性」の区別しかなかったが、今では9つくらいの区分が出てくる。中には「自分の性がわからない」というのもある。それくらい多様性を重んじているわけだ。
そんな中、グラミー賞も男女カテゴリーを廃止した。日本の紅白歌合戦では紅組白組の司会者呼び名を無くすという微妙すぎる判断で苦笑せざるを得ない。まあ、紅白の区別無くすと番組名が「歌合戦」になっちゃうんだけど
さて、人間というのは言葉を操っているつもりが、実は言葉に操られてしまうことがある。言葉が現実を規定してしまうのだ。何かの表現を避けると、それを避けるための新しい言葉を作らなければならず、行き過ぎるとポリティカリー・コレクト(政治的言い換え)を無数に産む。そして、いつの間にか本質と違うところで、逆差別が助長される。
ミスコンも”美人会長”と呼ぶことも全部NGだ。それにしても”美人会長”は、なんでお詫びさせられたのかちょっと理解に苦しむが…。
「職業欄」なんていうのも、今の時代に意味あるのかね?私なんて、農民で、コンサルタントで、芸能事務所の社長で、IT従事者で、不動産屋である。21世紀に職業欄がいかに無駄かわかる。
アフターコロナの職業は、「人間」で良いんじゃないだろうか。そして、それを仕事にすることがいかに難しいか認識できるはずだ。人は「人間」らしさを追求してくことでしか、社会に貢献できないし、そもそも自分自身の生きる意味も見いだすことが出来ない。
ま、夫婦別姓が政策課題になっているレベルの国ではジェンダーや職種フリーと言ってみても虚しいだけだが….