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自分にとってのTENET体験 : 1984年からやってきた未来

高校の同級生が卒業文集を見つけて送ってくれた。

1984年3月ってことだから、36年前の17歳の時の文章かぁ。
むちゃくちゃ、難しいこと言ってて さっぱり理解できない(笑)
大人になると頭が良くなるなんて嘘だな。

でも、よく読むと当時はチョムスキーとかレヴィ=ストロースなんかを愛読し、週末は京都書院で「みすず書房」や「法政大学出版」の本を読みあさっていたから、おそらくそういう影響まるかぶりなんだろうと思う。
#SweetSeventeen

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福田 淳 (生年月日40.7.26)
時間を知るには時計がいる。

時計がなければ、ほとんど何もわからない。それは砂漠に置き去りにされた旅行者のようなものである。つまり人間と動物とを分け隔てているものは「時間」の観念なのだ。時計によって時間を拐え、自己を時代に相対化させる。

しかし、動物にも生体リズムなるものがあり、場合によっては暗くなれば寝むり、陽が昇れば起きることができるらしい。その場合、「時間」の抽象性は完全に、観念として受けとめられる。ところが人間の場合は「時間」を、一旦、時計を媒介にして物質化し、「空間」として再構築するわけだ。

おそらく、このような文字による言説(ディスクール)も、時間の空間化という作業だろう。文集などというものも、切り取られた数年間の神話化に他ならない。その中では時間は止まり、全ては静かなタブローと化す。

動きあるものは、必然化され、しかるべき位置に修正される。“古き良き時代”などというアフォリズムも、その種の検閲を受けたものに違いないのだ。

我々はまだ「時間」の扱い方を知らないのかもしれない。だから「時間」を崇めたり、もてあましたりして、物質崇拝する。それはいわば、フィルムを入れずに空シヤッターを押して満足しているようなものである。

しかし、いずれ「時間」を使う方法が自覚されてきたならば、もっと「現実」の見方が豊かになるはずだ、と思う。文集という手段も、もっぱらそこに行き着くための試行錯誤なのかもしれない。

まあ 今のところは、このような文集にして美化しておくのも悪くはあるまい。一度「物」に変わった「時」は、それだけで人を安心させるのだから…。

序文にかえて・・・
(あるいは、過去の現在化に対するアンチ・テーゼ)