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東北新社 創業者 植村伴次郎さんのこと。

昨年90歳でこの世を去った私のメンターである東北新社 創業者 植村伴次郎さんを偲ぶ会の写真を頂いた。残念ながら海外におり出席は叶わなかった。

わたしは新卒で東北新社に入社し、CM制作部から衛星放送事業部に配属され、長い間 植村さんの元でお仕事をさせてもらった。1988年から1997年までの9年間たいへんお世話になった。

植村さんほど偉大な方が自伝など一切残していないのは不思議に思われるかもしれない。実は、ある日、子会社のポストプロダクション「テレビテクニカ」(現 オムニバス)の山下社長に「わたしの半生を映像に記録します」と言われ、早速社長室にカメラや照明をセッティングしたところ、植村さんは「ああ、こういう照明のあて方はなってません!」と怒り出し撮影は一瞬にして中止となった。それ以降、人生を語る場面もなく生涯を終えられた。

わたしは東北新社を辞するまでの数年間、毎日のように植村さんとご一緒させてもらったので、知る限りの植村さんの人生を記しておきたいと思う。

植村さんは、その昔、東北新社を起業される前の1950年代、新橋に「COMO」というバーを経営していた。そこに、劇団四季の若手俳優たちが集っていて、その中に黒柳徹子さんもいた。植村さんは、1929年生まれなので20代である。

1950年代の後半、時代はラジオからテレビになり、そのバーに来る客の中に東映のテレビ部の渡邊亮徳さん(当時課長、のちの副社長)がいた。彼が映画会社の中の傍流だったテレビ部門の新規事業として「仮面ライダー」を手掛けヒットシリーズに育て上げ、800億円以上の利益を東映に与えることになる。それをアドバイスしたのが、植村さんだ。渡邊さんが その後1996年に東映をクビ(自分の誕生パーディに2億円かけ、それを週刊新潮にかかれ引責辞任)になった後も、個人事務所を設立してあげ 亡くなるまで終生大事にお付き合されていた。

1960年代のテレビ業界は自社での制作能力がなかった。そこにビジネスチャンスをみた植村さんは、海外からの輸入番組に”日本語吹き替え”をつけ「東北社」(植村さんの出身地秋田をイメージして浅利慶太さんが命名。ロゴマークの向きは秋田を指している)を設立し、それらの請負仕事をはじめた。当初はテレビ局が自社で吹き替えを行っていたが、1エピソード1日の収録していた。しかし植村さんは、声優たちにギャラを2倍払うから徹夜でやってくれと、1晩で3エピゾードまとめて収録しテレビ局からの受注を得た。そして、そのやり方が大成功だった。(創業1961年)

「奥さまは魔女」「スパイ大作戦」「ララミー牧場」などの吹き替え業務は大繁盛だった。当時のテレビ編成は、1エピソード週3回リピートするほどコンテンツが足りなかった。

のちに「サンダーバード」(だから黒柳さんが出演している)で吹き替えだけじゃなく自ら海外から番組を輸入する”版権”ビジネスに進出した。これは、貿易自由化により大手テレビ局以外の企業も海外送金が自由化され、海外からテレビ版権の購入することができるようになったことで手掛けられたものだ。ライバル会社に「太平洋テレビ」という会社があったが、ハリウッドスタジオへのロイヤリティ報告を誤魔化し倒産に追い込まれる。そこでも植村さんはハリウッド、ユダヤ人エグゼクティブから絶大の信頼を得るようになったのだ。

余談だが、植村さんは長く日本のユダヤ人協会の会長をされていた。ユダヤ人の友が亡くなると日本のような香典があり、それはイスラエルに木を植林したという証明をだすのだ。流浪の民であるユダヤ人の心の拠り所であるイスラエルへの植林はもっともユダヤ人の喜ぶところであり、そんな習慣に日本人でまぜてもらえたのも植村さんの凄さだろう。

さて、1970年の東北新社は従来の吹き替え事業に加え、この版権ビジネスと、その作品に関連する商品化権利の3つの収益の柱として成功し、赤坂に自社ビル(サンダーバードビルと呼ばれた)を建てるまでになったのだ。

そこに至るまでにもバー「COMO」があった新橋の周辺の土地が東急グループに立ち退き要求があったとき、町を代表して植村さんが五島慶太さんと交渉し名を挙げた話や、船が難破し打ち上げられた海岸で宝石の密輸の取引を盗み見て仲間にいれたもらった話、有名俳優の娘だったメラニー・グリフィスがお金に困って植村さんが渡したお小遣いの話など奇想天外なエピソードや山ほどある。

児玉誉士夫、太刀川恒夫、徳間 康快など昭和の怪人たちとの交友など刺激的な話をいつも聞かせてもらった。

わたしは、1989年に打ち上げられた通信衛星を利用した衛星放送スカイポートTVの立ち上げ準備スタッフとして配属されることになる。それから、通信と放送の垣根の問題、デジタル放送開始に伴うソフトバンクのテレビ朝日テイクオーバー、20世紀フォックスの会長であるルパード・マードックが仕掛けたJスカイBの設立、米国ディレクTVの日本進出など百花騒乱の多チャンネル時代を直に体験することになる。これについては、朝日新聞の政治部記者出身の山下隆一さん(当時は朝日ニュースター、現在のCSワンテンの常務)が書いた本「ザ ブレイク オブ ア スカイTV : CSメディアに賭けた男たち」に詳しく載っている。なぜか福田が悪役っぽく登場する。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004017957-00

当時の植村さんは、衛星テレビに並々ならぬ意欲をもっており「CMプロダクションのオヤジで終わりたくない」と話していた。最終的には非常に巧みな戦術 (田中角栄から連なる竹下派との付き合いによる郵政省への働きかけ、これはまだ書けないことが多い)で「スター・チャンネル」「スーパーチャンネル」(現スーパードラマTV)「ファミリー劇場」「クラシカジャパン」「囲碁・将棋チャンネル」「プレイボーイ チャンネル」など6チャンネルのオーナーになることができた。

1993年ごろだったか、鞄持ちでカンヌ映画祭にご一緒し、植村さんと二人でオメガの前のベンチに座って休憩していたとき、植村さんが「福田くん、わたしは人に使われて仕事をしたのは、米軍基地のバーテンダーやっていた時だけです。そのときに兵士の腕にひかっていた時計がオメガで憧れたものです」と言われた。植村さんは、中卒で戦時中は群馬の中島飛行機(現 富士重工)の工場に学徒動員され戦闘機をつくっていた。そのまま社会にでた。以降、独自の視点でビジネスを拡大されてきた大天才である。いまでも、経営判断で悩むと、植村さんの言葉がでてくる。

本当に思い出はつきない。まだまだいろいろなエピソードがある。

・台風の夜中に電話がかかってきて、経営しているスーパーマーケット(ナショナル麻布マーケット、スーパー田園)の立て看板がはずれてないか使い捨てカメラで撮ってくるように依頼された。
・環八を走る高速車が見えるクルクル回る看板を作ろうとした。
・まだ高価だったVHSテープをコンビニ雑誌のオマケにつけるためにアメリカに分厚い段ボールを探してくるよう命がくだされた。毎朝このアイデアの夢をみて枕元のメモで書き記しておいたという。
・男性用のトイレの便器を位置が低いものから高いものに変えて、跳ね返りを無くす実験をし採用された。
・グループ各社が毎日消費するトイレットペーパーは外部から買うのは理不尽とナショナルトレーディングとという会社を興した。
・週末の接待ゴルフのクライアントへのお土産に奥さま向けに高価日傘をプレゼントしたが、実はミラノで購入した帝国ホテルに納入するためのカーテンの端切れを防水加工して作ったものだった。
・ロンドンからスタッフのカバンに輸入制限のある高級ハムを持って帰らせた。
・カンヌで撮ったハレー彗星の画像を「スター・チャンネル」のタイトルバックに使わせロイヤリティが欲しいとリクエストされた。当時は福田はスター・チャンネルの営業部長で東北新社と兼務していたので、一人二役での対応だった。つまり東北新社の社長がスター・チャンネルの部長に頼んでいる体裁だったわけだ。(NHKの朝ドラと交響楽団のビジネスモデルを参考にされていた)
・尾山台の自宅の豪華プールに飲み水を使用しており、作家の渡辺淳一さんが「災害のときに近所に配布できるね」と言ったら激怒した。
・バーべキューパーティで玉ねぎの焼き方を教えるため、一緒にスーパー田園に行って玉ねぎの選び方からレクチャーされた。その時の店員が植村さんにあまりにソックリで驚いていたら七郎さんといって弟さんだった。笑
・綺麗好きは有名で、椅子に欠けたジャケットやオフィスで流している音楽がなったラジカセがそのままゴミ箱にいれられていたことがあった。
・海外出張の際に営業マンがアロハシャツを着ているのを目撃し、以降機内でもネクタイ着用のルールができ、シャツの第二ボタンまで外している先輩が怒られていた。
・カンヌの街をみんなで歩いていた時に突然「ここはなんの道かわかりますか?」と質問され私が「ナポレオンが凱旋した道です」と答えたら、その日は英雄扱いされた。
・初夏のカンヌのムジャーンという村で城でのディナーがあり、9時から0時まで長いコースだったが、礼法上の理由で上着は着用とのお達しで汗だくで頑張っていたら、アメリカ人がジーンズとTシャツで入ってきて気まずかった。
・普段、交流のない社員と無礼講でうなぎを食べたいと提案された。その席で、誰かがある役員の悪口をいったら即座に宴会が終了となった。
・スーパーチャンネルの最初の広告主は植村さんと一緒にプレゼンした吉野家(当時、杉本社長)だった。トップ営業でバンダイなど何社か一緒に周ったことで、営業のコツを掴み、自分で初めて多摩川の中古車屋の広告をとることが出来た。物凄く褒められた。
・会議のときに植村さんの手元のメモをみたら”こいつは少将どまり”と書いてあり、その後その役員は左遷となった。
・会議に計算機は必須で、すべての報告や試算は1の単位まで言わないと怒られた。また顧客の電話番号を暗記してないと怒られるのでいまでもテレビ局の代表番号は覚えている。
・ディレクTVジャパンとの提携の初会合でツタヤの増田社長が「伴次郎さん」とファーストネームで何度も呼んだので、失礼だとし話し合いは一瞬で終了した。
・いまの安倍首相のお父様である安倍晋太郎さん(当時、自民党政調会長)に白いずっしりとした紙袋を届けた。中身は知らない。
・衛星放送のアップリンク基地を建てるための世田谷区尾山台の土地の取得を任された28歳の福田は、原因は忘れたが、地主を酷く怒らせた。それをみかん箱ひとつで解決してくれた。偉い人が重いみかん箱をもって謝罪に行く姿をみせれば許しくくれる、という理屈で感心した。
・秋田酒造にまつわる話しや、一ツ木通りで天皇家御用達のお皿事件についてはここでは書けない。

書いていくうちに、植村さんのチャーミングなお姿が浮かび寂しい気持ちになってきた。
本当に安らかに天国でお過ごしくださいませ。

福田淳

昭和37年 1962年の新聞取材。

新橋のバー「COMO」時代

 

躍進のきっかけとなった「サンダーバード」